監督 ウィリアム・ワイラー
日本公開 1954
出演者 グレゴリー・ペック オードリー・ヘップバーン
この映画は本当に思い入れのある作品です。
こじひでが初めて観た洋画!
1番好きな映画!と言っても良いくらいの映画で、間違いなく好きな映画BEST3に入っている。
そこまで思い入れがあるのは、初めての洋画。初めての恋愛映画。初めて観た女性の美しさ。
すべてが経験した事のない映画だったから!
当時はまだ、横浜の相鉄ムービルが西口のロータリーに面してる場所にあって
そこで『名作映画フェスティバル』みたいな名目で上映してた。
それまでムービルは何回も行っていたけど、ドラえもん、ルパンなどアニメか
黒澤映画フェスティバル。みたいな映画しか観た事が無かった。
ヘップバーンについては、こじひでが小学生だった事もあると思うが
第一印象は『綺麗な人だなー!』でしたね。今で言えば『透明感のある女性』って言葉?
綺麗であり、可愛くもあり、凛としていて、愛嬌もあって、、
完璧!!そう、完璧すぎて『神』のようでした。
スクリーンを通してもオーラを感じる事が出来た。
物語が進むにつれ、ワクワク、ドキドキ、ハラハラしながら映画に吸い込まれ、
魅入っていた記憶がある。
★ここからはネタバレになるから、注意!!
王女としての公務に退屈さを感じ、一般の人の生活や、普段見ることの出来ない、普通の人の社会に興味を持ち、公邸を抜け出してしまう。
最初は、数時間程度に考えていた王女が、公邸で寝る為に、従事している医者に渡された睡眠薬の効果が抜け出した先で効いてきてしまい、広場で寝込んでしまう。
たまたま通りかかった男性と(しかも、よりによって、その王女を取材する側の新聞記者と)王女、新聞記者という身分をお互いに隠しながら数日間を共にする。。
ダンスパーティーでのドタバタ劇!真実の口でのドッキリ!2人でバイクに乗り市内を爆走!
最初は記事のネタにする為に王女と共にしていた記者が、王女と恋に落ち、しかし、どうにも出来ない恋に王女も記者も直視しなければならない残酷な現実。。
ラストシーンは、王女の会見の場に、男性が新聞記者として王女の前に現れ、王女は、男性が
自分の事を王女と知っていた事に驚きながらも、同伴していたカメラマンから、一緒に過ごした
その数日間の写真を渡され、、
そして、、
会見の場で『1番印象に残った場所は?』の問いに、当たり障りのない返答をしようとして、、
『ローマ。。ローマです!』このセリフにガキだった俺も泣いたっけなー。。
会見がお開きになり、主人公が会場を後にするシーン。。
影が王女がいた場所から離れていき、寂しく足跡が鳴り響く。。
本当に切ない恋物語でしたね。。親が隣にいたので、隠れて涙を拭いました。。
大人になってからも何回も何回も観たけど、やっぱり最高!!
あのライター型のカメラ。今でも欲しい!(笑)
ホント、この映画をまだ観てない人いたら、必ず観て欲しい作品です!
必ず観て下さい!!!
最高です!!!
★(Wikipediaより参照)
1948年にリバティ・フィルムがパラマウント社に買収された後に、キャプラを監督にして製作に入ることに決まっていた。この時、エリザベス・テイラーとケーリー・グラントに出演交渉されたが、パラマウントの予算が少なかったためキャプラは興味を失った
その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めにウィリアム・ワイラーがこの脚本を知り、ローマでの撮影を条件に強い関心を示して、ワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった
ワイラーがローマへ携えた草稿は、トランボの脚本をハンターが手直ししたものであった。
ワイラーは、イギリスの作家ジョン・ダイトンを雇い、その草稿に磨きをかけて製作中に新たなシーンを書き加えさせた。そのため、1953年に映画が公開された時には、画面に出された脚本家のクレジットはハンターとダイトンが共有した
撮影地とモノクロ
この作品の撮影に入ったのは1952年夏であったが、この年の夏はローマにおいて例を見ないほどの猛暑で街全体がサウナ状態であった。出演者はメイクが流れ落ち、頻繁にメイクアップを直していた。また、撮影のために雑踏を整理する仕事はまさに悪夢であり、さらには政治的状況は危険と暴力に満ち満ちていた。ファシストとコミュニストが激突し、突如爆発があったり、発砲騒ぎがあったりしていた。ある時は撮影しようとしていた橋の下でテロリストによる5つの爆薬の束が見つかったりもした。
ワイラーが唯一悔いを残したのが、テクニカラーで撮影しなかったことであった。制作費を抑えるためにワイラーはモノクロで撮ることに同意し、「その誤りに気付いた時はすでに遅く、充分なカラーフィルムをイタリアに送る時間がなかった」と語っている。
オードリー・ヘプバーンの起用
この作品で最初にヒロイン候補に挙がっていたのはエリザベス・テイラーであった。その後監督がフランク・キャプラからウィリアム・ワイラーに変わり、ヒロイン候補にはジーン・シモンズの名前が挙がった。しかしジーン・シモンズと専属契約をしているハワード・ヒューズが貸し出しを拒否した。グレゴリー・ペックも最初は出演を渋ったがワイラーが説得、出演を承諾した。インタビューでワイラーは「主役にグレゴリー・ペックを使えると決まって急に具体化しました。相手の王女役に大スターを使う必要がなくなったからです。そこで私は無名であっても王女の役にふさわしい娘さんを捜しにかかりました。」と答えている。
1951年7月パラマウント社ロンドン支社のリチャード・ミーランド製作部長は「『ローマの休日』の新しい候補、オードリー・ヘプバーンを発見した。『素晴らしき遺産』で彼女が演じた小さな役に感銘を受けた。」とニューヨークの事務所に送った。ロンドンに立ち寄ったワイラーはオードリーに会い「何か独特の個性を持っているという強い感銘を受け、早速カメラ・テストをすることにしました」と答えている。
当時、オードリーは映画界では無名に近い存在であったが、その彼女をロンドンのパインウッド撮影所に呼んで1951年9月18日にスクリーン・テストを受けさせた。監督はオードリーの希望で『初恋』の監督だったソロルド・ディキンソン。他に俳優でライオネル・マートンとキャスリーン・ネズビットが出演した。ワイラーはありのままのヘプバーンを評価するために、ベッドから起き上がるシーンのテストが終わってもカメラを回して撮影しておくように指示した。テストが終わったと思い込み、笑顔で伸びをする自然なヘプバーンのフィルムを見たワイラーはヒロインに抜擢することを決めた。グレゴリー・ペックも彼女の才能を認め、新人であるにもかかわらず自分と同等のクレジットを与えることをエージェントとスタジオに要求。ヘプバーンは映画のタイトルの前に主演としてグレゴリー・ペックと共に載った。
しかし、彼女にはそれ以前に声がかかってブロードウェイで上演される『ジジ』の主役に抜擢されており、この後9月末に船でニューヨークに向かった。『ジジ』は大好評で、パラマウントはオードリー・ヘプバーンを5月末で解放してくれるよう『ジジ』のプロデューサーに5万ドルを支払った。『ジジ』はチケット完売のままでおよそ6か月の公演が続き、5月末に終了した。『ローマの休日』の撮影に入ったのは主演に決まってから8か月後の1952年6月であった。
撮影
撮影はローマ市内の観光名所や公共施設で撮影するので、騒音対策、交通整理、パパラッチ問題に悩まされて、移動のたびに見物するファンの群れにも対応せざるを得ず、暑い夏で大変な作業を要したと言われている。
ペックとワイラーは新人ヘプバーンの女優としての力量を引き出すために腐心した。真実の口のシーンの撮影では、2人は一計を案じ、本番で真実の口に手を突っ込んだペックは、本当に手を噛みちぎられたように演じた。ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せた。この自然な演技は、2人を十分満足させるものであり、1テイクでOKが出た。
ローマ市内を2人がスクーターで走る場面は、この映画の代表的なシーンになったが、わずか3分のシーンであるのに撮影には6日間を要した
との事です。
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